福岡高等裁判所那覇支部 平成11年(ネ)7号 判決 1999年12月21日
控訴人 国
代理人 山之内紀行 増永俊朗 世嘉良清 読山司 ほか三名
被控訴人 安谷屋保三 ほか二名
主文
一 本件各控訴をいずれも棄却する。
二 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一当事者の求めた裁判
一 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人らの請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
二 控訴の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二事案の概要
本件の事案の概要は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決の事実及び理由「第二 事案の概要」のとおりであるから、これを引用する。
1 原判決四頁四行目の「原告安谷屋保榮(以下「原告保榮」という。」を「安谷屋保榮(以下「保榮」という。)」と訂正する。
2 同五頁三行目末尾の次に改行し、次のとおり加える。
「7 保榮は、平成一〇年一二月一三日死亡し、相続人の遺産分割協議により、被控訴人安谷屋保光(以下「被控訴人保光」という。)が本件土地二に関する権利義務を承継することとされた。」
3 同四行目及び六行目の各「7」をいずれも「8」と訂正する。
4 同七行目から同六頁七行目までを次のとおり訂正する。
「三 抗弁
本件各土地が、もと被控訴人らの先代の所有に属するものであったとしても、昭和二〇年ないし二二年ころには海没し、以後、土地調査法による調査が行われた昭和三七年の時点でも海没していることが確認され、その特定性と支配可能性が失われているから、被控訴人らないしその先代は、本件各土地に対する所有権を喪失した。
また、本件各土地のうち、少なくともその一部(本件土地一については、本判決添付図面<略>中、<ロ>AB<ロ>の各点を順次直線で結んだ範囲及びCD<ハ>Cの各点を順次直線で結んだ範囲の各土地部分、本件土地二については、同図面<略>中、<ハ>DE<ホ><ハ>の各点を順次直線で結んだ範囲の土地部分、本件土地三については、同図面<略>中、<ホ>EF<チ><ホ>の各点を順次直線で結んだ範囲の土地部分)は、平成七年秋分の日の満潮時において水面下にあったため、沖縄県土地開発公社が、右部分を含めた公有水面につき、公有水面埋立免許願書を沖縄県に提出し、被控訴人らを含む利害関係人からの意見書等の不提出等に基づき、平成九年七月三日付けで埋立免許を得るに至っているのであって、これらの事情からすれば、少なくとも右部分については、現在陸地となっていることは争わないものの、これまで、特定性及び支配可能性が失われていたことは明らかである。
そして、いったんその所有権が消滅している以上、再び陸地化したからといって、所有権が復活するとするのは、法的安定性を害するといわざるをえない。
四 抗弁に対する認否及び反論
本件各土地が、昭和二〇年ないし二二年ころに海没したことは認める。
しかしながら、被控訴人らないしその先代は、本件各土地につき、その後、土地所有権申請をし、これに基づき、土地台帳に右各土地が記載され、登記簿も作成されるなどしたほか、本件各土地は、海没後も、干潮時には地上に浮き出していたことから、舟置場、網干場、荷捌場等として利用されてきたのであるから、本件各土地の特定性及び支配可能性は何ら失われていない。
また、私的所有権の対象であった土地が、いったん海没したとしても、現在、土砂が堆積して再び陸地化した以上、国有地として扱われるのは不当であるから、当然に従前の土地所有権が存続するものとして扱われるべきである。
五 争点
1 被控訴人らの先代である蒲啓、保盛及び光榮が、もと本件各土地を所有していたか。
2 本件各土地の海没によって、被控訴人らないしその先代の所有権が消滅したか。」
第三当裁判所の判断
当裁判所も、被控訴人保三は本件土地一の、同保光は本件土地二の、同光一は本件土地三の各所有権を有していると判断するものであるが、その理由は、次のとおり加除、訂正するほか、原判決の事実及び理由「第三 当裁判所の判断」のとおりであるから、これを引用する。
1 原判決八頁二行目の「施行され、」から三行目の「作成された」までを次のとおり訂正する。
「制定され、従前の土地台帳等に基づき、各筆ごとに土地の所在、地番、地目、地積、所有者等の確認がされた後、現地で調査を行い、地籍調査票が作成されるとともに、地積測量がされ、地籍図及び地籍簿が作成された」
2 同一〇行目以下の「原告保榮」及び同一二頁四行目の「原告安谷屋保榮」をいずれも「保榮」と訂正する。
3 同八頁末行の「申請をしたが、」から九頁一行目の「なかった。」までを次のとおり訂正する。
「申請をしたが、当該各申請書の摘要欄にはいずれも「堤防ノ為潰レル」と記載された。」
4 同九頁二行目の「五五二番の土地」を「島尻郡豊見城村字与根五五二番の土地(以下、同所の土地については地番のみで表記する。)」と、同行の「表示された」を「表示され、隣接する五五三番ないし五五五番の土地を含め、それぞれの位置関係は、旧公図どおりに記載された」とそれぞれ訂正する。
5 同三行目末尾の次に改行して、次のとおり加える。
「そして、右五五二番の土地の所有者である安谷屋松一は、右土地について土地所有権申請をしたが、その地積は、当初六〇〇坪と記載されていたものが、二九二坪と訂正され、また、右土地所有権申請書添付の見取図によれば、五五二番の土地は、五五三番及び五五六番(本件土地一)の双方に隣接するように記載されていた(そのうち五五三番の土地に接する部分が、「五五二畑地」とされ、五五六番(本件土地一)の土地に接する部分が、「五五二潰地」とされた。)。また、安谷屋松一の右土地所有権申請書には、五五三番の所有者である蒲啓のほか、五三六番の土地所有者である安谷屋清市が保証人となった(以上につき、<証拠略>)。
さらに、右五五二番の土地の東側に隣接する五五一番の土地については、同土地の所有者である安谷屋晴松が土地所有権申請をしたが、その地積は、当初七一二坪と記載されていたものが、三七〇坪と訂正され、また、右土地所有権申請書添付の見取図によれば、同土地(潰地)は、五五二番の土地全体に隣接するように記載されていた(<証拠略>)。
その後、蒲啓、保榮及び光榮は、本件各土地の土地所有権証明書を取得し、これに基づき、本件各土地については、右土地所有権申請書どおりに、土地台帳が調製され、土地登記簿の表題部が作成された(<証拠略>)。」
6 同九行目の冒頭から「調整されておらず、」までを削除する。
7 同一〇頁八行目の「しかしながら、」の次に、「本件各土地周辺については、南濱崎原と仲原との字境の道路が、第二次大戦後、米軍によって拡張されたものの、その位置は変更されなかったほか、保榮の本件土地二やその周辺の屋敷の敷地については、戦前の石垣、井戸等が従前どおり残っていた(保榮の本件土地二の石垣、井戸については、現在も残っている。)のであるから(<証拠略>)、土地測量をするにあたり、基点や各筆の位置関係等を把握するのは比較的容易であったと推認できる上、」を加える。
8 同一一頁二行目の「五三四番ないし五五五番」を「五三五番ないし五三七番、五四一番ないし五四五番、五五三番ないし五五五番」と訂正する。
9 同七行目の「(<証拠略>)、」の次に、「同人が五五二番の土地所有権申請をしたときの見取図にも、本件土地一が表示されているほか、五五二番及び五五一番の各土地の土地所有権申請の内容等を総合すると、本件土地一の東側にも、五五二番及び五五一番の土地が、現状よりも広い面積で、続いていたと考えられること、」を加える。
10 同一二頁一行目の「にくいこと」を「にくい上、旧公図の調製者は、蒲啓のほか、委員長の大城新助であり、右公図が土地台帳付属地図とされるとともに、これを前提に、本件各土地が土地台帳及び土地登記簿に記載されていること(<証拠略>)」と、七行目の「証人嘉手納良一及び同大城晃」を「証人嘉手納良一(以下「嘉手納」という。)及び同大城晃(以下「大城」という。)の各証言」とそれぞれ訂正する。
11 同一三頁六行目の「砂浜となっていたこと、」の次に、「本件土地一の東側には、安谷屋松一、安谷屋晴松の各土地があったこと、」を加える。
12 同一四頁一行目の「本件各土地の存在」を「本件各土地が蒲啓、保盛ないし保榮及び光榮の所有であったこと」と訂正する。
13 同四行目の「認められ、」の次に、「嘉手納や大城は、保榮の本件土地二には戦前の石垣、井戸等が従前どおり残っていたことを前提に、本件各土地の存在やその位置を述べているものと考えられるから、」を加える。
14 同八行目の「必ずしも明瞭ではないが、」の次に、「前述のとおり、安谷屋松一が五五二番の土地所有権申請をしたときの見取図にも、本件土地一が表示されているほか、五五二番及び五五一番の各土地の土地所有権申請の内容等を総合すると、本件土地一の東側には、五五二番及び五五一番の各土地が、現状よりも広い面積で、続いていたと考えられること(前出)、」を加える。
15 同一五頁一行目の「断定はできないものの、」から二行目末尾までを「旧公図と前記各証言が矛盾しているとはいえない。」と、同五行目の「五四二番」を「五四二番地」とそれぞれ訂正する。
16 同八行目の「当時、」から九行目の「あったこと、」までを削除する。
17 同一〇行目ないし末行の「またがる等不自然な配置となっていること(<証拠略>)を総合すると、」を「またがっていることからすると(<証拠略>)、本件各土地周辺については、土地の名称及び地番変更の際、戦前の各筆に従ってこれを新しい地番に変更したのではなく、その後の分筆や滅失等を踏まえ、現状の各筆に対し、それぞれ新たに地番を付けたものと考えられるのであり、これらの各事実を総合すると、」と訂正する。
18 同一六頁一行目の末尾の次に改行して、次のとおり加える。
「そして、本件各土地は、昭和二〇年ころ、米軍の土砂採取のため、海没したのであるから(<証拠略>)、蒲啓、保榮及び光榮において、土地所有権申請の際、あえて虚偽の土地所有権申請をする理由は考えられないというべきであり、同人らは、戦前の記憶に基づき、誠実にその土地の形状、地積等を申告したものと推認される。そして、右申告等に基づいて作成された旧公図を現在の法一七条地図に重ね合わせた結果、五五六番ないし五五八番の各土地が本件各土地にあたるというのであり(<証拠略>)、右各土地の範囲がこれと異なることを窺わせる証拠は全く存しない。」
19 同八行目の「本件各土地をそれぞれ」を「順次本件土地一、本件土地二及び本件土地三を」と、末行の「隆起した」を「陸地化した」とそれぞれ訂正する。
20 同一七頁三行目の「失うものではなく、」を次のとおり訂正する。
「失うものではないところ、蒲啓、保榮及び光榮は、前述のとおり、本件各土地につき、海没後にも、位置及び地積等を特定して、土地所有権申請をし、これに基づき、土地台帳に右各土地が記載され、登記簿も作成されるなどしたほか、本件各土地は、海没していた間も、干潮時には地上に浮き出していたことから、舟置場、網干場、荷捌場等として利用されてきたことが認められ(<証拠略>)、これらの各事実を総合すると、控訴人主張の公有水面埋立免許の経緯等を考慮しても、本件各土地については、特定性と支配可能性が存続していたものというべきである。
また、仮に、特定性と支配可能性が失われたと解されるとしても、」
21 同四行目の「自然」を「土砂」と訂正する。
22 同六行目から末行までを削除する。
第四結論
以上によれば、被控訴人らの請求はいずれも理由があるので認容すべきであり、これと同旨の原判決は正当である。
よって、本件各控訴はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 飯田敏彦 吉村典晃 大野勝則)
<参考>第一審(那覇地裁 平成九年(ワ)第一九八号 平成一〇年一二月一〇日判決)
主文
一 被告と原告安谷屋保三との間で、原告が別紙物件目録一<略>記載の土地の所有権を有することを確認する。
二 被告と原告安谷屋保榮との間で、原告が別紙物件目録二<略>記載の土地の所有権を有することを確認する。
三 被告と原告赤嶺光一との間で、原告が別紙物件目録三<略>記載の土地の所有権を有することを確認する。
四 訴訟費用は被告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
主文同旨
第二事案の概要
一 請求原因
1 原告安谷屋保三(以下「原告保三」という。)の父安谷屋蒲啓(以下「蒲啓」という。)は、もと別紙物件目録一<略>記載の土地(以下「本件土地一」という。)を所有していた。
2 原告安谷屋保榮(以下「原告保榮」という。)の父安谷屋保盛(以下「保盛」という。)は、もと別紙物件目録二<略>記載の土地(以下「本件土地二」という。)を所有していた。
3 原告赤嶺光一(以下「原告光一」という。)の父赤嶺光榮(以下「光榮」という。)は、もと別紙物件目録三<略>記載の土地(以下「本件土地三」といい、本件土地一ないし三を「本件各土地」と総称する。)を所有していた。
4 藩啓は、昭和四四年七月一一日に死亡し、相続人の遺産分割協議の結果、原告保三が本件土地一に関する権利義務を相続することとされた。
5 原告保榮は、昭和二二年三月五日、保盛の隠居により、家督相続した。
6 光榮は、平成九年一二月一一日死亡し、相続人の遺産分割協議により、原告光一が本件土地三に関する権利義務を承継することとされた。
7 被告は、原告らの本件各土地所有権を争っている。
二 請求原因に対する認否
請求原因1ないし3の事実は否認し、同4ないし7の各事実は認める。
三 主たる争点
本件各土地が私権の客体となる土地であったかどうか。
四 争点に関する当事者の主張
(原告ら)
原告らの先代は、本件土地一及び三を畑として、本件土地二を屋敷及び畑として、それぞれ使用していたが、昭和二〇年から二二年ころにかけて、米軍が、本件各土地を強制的に接収し、大量の土砂を採取したため、本件各土地は海没した。その後、土砂が堆積し、現在は再び陸地となった。したがって、本件各土地は、原告らの所有である。
(被告)
本件各土地は、もともと海面下の土地又は海浜地であり、私権の対象となる土地ではなく、国の所有に属する土地である。
第三当裁判所の判断
一 沖縄本島内の公図、登記簿、土地台帳等の土地関係記録は、太平洋戦争によって焼失した。米軍は、公図、公簿の早急な再製の必要性から、「土地所有権関係資料蒐集に関する件(一九四六年二月二八日付米国海軍々政本部指令第一二一号」を発し、土地所有権の認定のための準備作業を開始した。土地所有者は、字土地所有権委員会に対し、隣接土地所有者二名の保証人の連署をもって、土地所有権申請書を提出し、委員会が調査の上、測量を行って地図が作成された。
次に、米軍は、土地所有権認定作業について、「土地所有権証明(一九五〇年四月一四日軍政本部特別布告第三六号)」を発し、市町村所有権委員会が所有権証明書を作成し、これを一般の縦覧に供し、異議がなければ、市町村長が所有権証明書を承認し、署名捺印のうえ土地所有者に交付した。土地所有者は、土地所有権証明書を受領した後、土地登記所において登記手続をすることとされた。
右土地所有権認定手続においては、境界の位置、地積等について正確性を欠く場合があったため、昭和三二年、土地調査法(一九五七年立法第一〇五号)が施行され、公図や土地台帳を基にあらためて測量が行われ、土地の所在、地番、地目、地積、所有者、異動事項を調査し、地積調査票が作成された(以上につき、<証拠略>)。
二1 昭和二二年六月、前記指令に基づき、本件各土地付近の公図(以下「旧公図」という。)が作成された(<証拠略>)。本件各土地は、別紙図面<略>で「旧556」ないし「旧558」と表示された位置に、破線で固まれた「潰地」として表示された。本件各土地は、東西に続く帯状の土地から海側に突き出した形で存在し、帯状の土地の東側には、「護岸」という注記がある。
2 蒲啓、原告保榮、光榮は、昭和二二年、本件各土地について、土地所有権申請をしたが、「堤防ノ為潰レル」という理由で、土地所有権申請手続ができなかった。右各申請書に添付された見取図によれば、本件各土地及び本件土地一の東側に隣接する五五二番の土地が「潰地」として表示された(<証拠略>)。
3 さらに、昭和三七年、土地調査法に基づく調査が行われたが、本件各土地はいずれも「海之滅失」との理由で、地籍の確認ができず、同年六月一九日付で、蒲啓、原告保榮、光榮が、滅失について同意(承諾)をする旨の署名押印をした(<証拠略>)。
4 本件各土地については、旧公図に先立つ資料は、現時点で存しない。また、以上の経過により、本件各土地の登記簿は調整されておらず、現在の地籍図(法一七条図面)においても、原告らが居住する五五三番ないし五五五番の土地の南西側の海との境に帯状の護岸部分が表示されているだけで、本件各土地は表示されていない。本件各土地は、現時点では、砂状の陸地として存在している(以上につき、<証拠略>)。
三 被告は、戦後の所有権認定作業が、短期間に大急ぎでなされたこと、測量技術や器具に問題があったこと、住民や調査者の意識の低さから極めて不十分な調査が行われたと推測されることから、旧公図は、現状と相違する不備欠陥が少なくなく、信用できない旨主張する。
たしかに、旧公図については、基点や境界が不正確であるなど問題があることが指摘されている(<証拠略>)。しかしながら、土地所有権申請は、一筆ごとに隣地所有者二名の連署をもって、字所有権委員会に対して申請されたものであるところ、土地の地番や所在そのものについては、被告が指摘する諸事情を考慮しても、誤謬が入り込む可能性は少ないというべきである。旧公図と現地籍図を比較すると、本件各土地の表示の有無を除けば、本件各土地に近接する五三四番ないし五五五番の各土地の所在、位置及び形状は概ね一致していることが認められ、このことは旧公図の正確性を裏付けるものである。これに加えて、蒲啓、原告保榮、光榮は、前記のとおり、本件各土地について土地所有権申請をした上、土地調査法に基づく調査を受けるなど本件各土地が存在したことを前提とした措置を講じていること、土地所有権申請について、右三名以外に安谷屋松一も保証人となっていること(<証拠略>)、本件各土地に関する「潰地」、「滅失」という記載は、かつては本件各土地が存在したことを前提としているとも考えられること、旧公図の測量者は、蒲啓自身と認められる(<証拠略>)ところ、字を代表して測量事務を担当した蒲啓が、かつて存在したことがない土地に架空の地番を付して旧公図に記載したとは考えにくいことを総合すると、旧公図における本件各土地の記載は一応信用できるというべきである。
四1 原告らは、昭和二〇年ころまで、本件土地一及び三が、い草や芋を栽培する畑として、本件土地二が、原告安谷屋保榮の弟安谷屋牛太郎(以下「牛太郎」という。)の自宅敷地や畑として利用されていた旨主張し、<証拠略>にはこれに沿う記載がある。
証人嘉手納良一及び同大城晃によれば、嘉手納は昭和二〇年当時一八歳で、保榮宅を月に一、二回訪ねていた者、大城は昭和二〇年当時一四歳で、本件各土地の近隣に居住していた者であること、保榮の屋敷は、戦前から存在する石垣の位置から見て、現在の屋敷の位置と同じ土地(五五四番)に建っていたこと、保榮の屋敷より海側(南西側)に牛太郎の屋敷があり、母屋とヤギ小屋が建っていたこと、両者の屋敷の境界には、ゆうなやアダンの木が植えられていたこと、牛太郎の屋敷の東西にも土地があり、蒲啓や光榮が建網、い草の干場及びサツマイモ畑として、それぞれ利用していたこと、これらの土地から海側に防風林としてアダンの木が植えられていたこと、アダンの木から海側は、戦前には護岸が設けられておらず、干潮時に荷馬車が通る程度の砂浜となっていたこと、昭和二〇年ころ、米軍が大量の土砂を採取し、蒲啓、原告保榮及び光榮の屋敷から海側がくぼんだ池のように落ち込んでいたこと、現在の護岸は、昭和二六年にルース台風による被害を受けて、昭和二八年から二九年にかけて構築されたことが認められる。
嘉手納や大城は、蒲啓らが居住していた五五三番ないし五五五番の土地及び本件各土地の地番並びに右各土地の所在や境界を明確に認識していたわけではないから、本件各土地付近の利用状況から、直ちに、本件各土地の存在が推認されるわけではない。しかしながら、前記証言や陳述書によれば、蒲啓らの屋敷から南西方向の海側に相当範囲の陸地が存したことは、具体的な利用状況も含めて一致した記憶であることが認められ、この点は前記公図の記載に沿うものである。
2 被告は、前記証人らが本件土地一の東側及び本件土地三の西側にも陸地があった旨述べるところ、旧公図の記載と矛盾していると主張する。しかし、必ずしも明瞭ではないが、旧公図上の本件土地一の南東角から五五二番、五五一番地先の海上に「潰地」であることを示す破線が引かれていること(<証拠略>)、土地所有権申請書添付の見取り図において、五五二番の土地も潰地と表示されていること(<証拠略>)、戦前には本件各土地付近に護岸が設けられておらず、自然の砂浜となっていたことからすれば、断定はできないものの、旧公図と<証拠略>が矛盾しているとも言い難い。
また、被告は、原告保榮と牛太郎の本籍地が「字志茂田一三四五番地」と同一地番であること(<証拠略>)、牛太郎の本籍地は、昭和二六年、土地の名称並びに地番号変更により、「字與根五四二番」となったこと(<証拠略>)から、牛太郎が本件土地二に居住した事実はないとも主張している。しかし、牛太郎の原戸籍は、昭和二〇年に戦火で焼失したため、昭和三二年に整備されたこと、当時、本件各土地は所有権認定ができず、公簿上は存在しない土地であったこと、被告作成の改正原戸籍に基づく配列図によれば、字志茂田一三四五番の土地が、現在の五四二番ないし五五四番など数か所にまたがる等不自然な配置となっていること(<証拠略>)を総合すると、右被告主張の事実によっても、前記四の1の認定を左右するに足りない。
五 以上の認定事実、とりわけ、旧公図に「潰地」として本件各土地が記載されていること、旧公図の記載が原告ら及び近隣住民の本件各土地付近の利用状況に関する記憶と符合していること、蒲啓、原告保榮及び光榮が本件各土地の所有権申請作業を行うなど海没後に所有者として振る舞っていたこと、原告らの他には、戦後現在に至るまで、本件各土地の所有権を主張した者がいることは窺われないことを総合すると、昭和二〇年ころ本件各土地が海没した時まで、蒲啓、原告保榮及び光榮が本件各土地をそれぞれ所有していたことを推認することができる。
六 前記認定のとおり、本件各土地は、昭和二〇年ころ、米軍の土砂採取により全体が海没した後、昭和三七年以降に土砂が自然に堆積して再度隆起したものである。私有地が海没した場合、現行法上、当該海没地の所有権が当然に消滅する旨の立法は存しないから、当該海没地について、特定性と支配可能性がある限り、所有権の客体としての土地であるという性格を失うものではなく、本件のように、いったん海没した私有地が、自然の堆積により、再度陸地化した場合には、元の所有者の所有権が肯定されるというべきである。
被告は、本件各土地が現時点で海面下の土地又は海浜地であるから、原告らにおいて、海面下の一定範囲が区画されて私人の所有に帰属したこと及びその承継関係を立証する必要がある旨主張している。しかし、本件各土地は、既に判示したとおり、そもそも地番が付された私有地であったことが推認できるのであるから、右主張も失当である。
以上によれば、原告らの請求はいずれも理由がある。
(裁判官 齊藤啓昭)
物件目録<略>